循環彷徨(じゅんかんほうこう)
「京都新聞」のコラム欄に「循環彷徨」という言葉を使って、身近な記事が出ていました。「循環彷徨」とは、私たちは自分の感覚だけで歩いていく、真っ直ぐに北へ歩んでいこうと自分で方向を決めて、そしていつも自分の感覚で「こちらが北だ」「自分は北を向いて歩いている」と思っていても、人間というのは二百メートル歩く間に五メートルはズレるのだそうです。
それも大体、利き足の方向にズレていくというのです。右利きの人は右へ、左利きの人は左へとそれていく。二百メートルで五メートルずつズレるのですから、二キロ、二〇キロとなると、結局、クルッと一周回ってしまうことになる。ですから、砂漠とか雪野原とか、なんの目印もない所で、ただ自分の感覚だけで歩いていくと、必ず最後にはグルグル回ってしまって、そして、ついには元の場所で死んでしまう。昔、「敦煌」という映画で、ある若い兵士がお姫様と逃げ出すのですが、一生懸命砂漠を走っていくうちに、気づいたら二人は元の所へ帰っていたというシーンがありました。
結局、そのことは、目印のない荒野、そういう所を歩く時だけではない。私たちが、この人生を歩んでいく時に、自分の感覚だけを頼りとして生きていくと、自分では気のつかないズレを、いつの間にか重ねてしまうということでしょう。そして、気づいたら、とんでもない所に来てしまっているということが免れない。
ところが、その荒野の中に、一本でも動かない木があれば、その木を目印にして「右へ逸れた」「左へ外れている」と、自分の今のあり方が知らされますね。木を見て、常に自分の位置を、あるいは自分の歩き方が正される。ある意味で、仏の教えとは、そういう“目印”という意味を一つ持つものでしょう。教えを聞くことにおいて、今、自分のあり方が、どうなっているのかがわかる。自分が当たり前と思っていることが、教えの前に座る時に、もう一度問い返される。そういうことが人間には非常に大事なわけです。
(元九州大谷短期大学長・宮城顗)